
挑戦はすべてのはじまり。
挑戦とは、自分を超えていくこと。
挑戦とは、新たな風を吹きこむこと。
挑戦とは、まだ見ぬ世界へ踏み出すこと。
私たちにとって挑戦とは、すべてのはじまりだ。
ヤマハ発動機の歴史は挑戦の歴史だ。
1955年7月。初めて製造したオートバイで挑んだ富士登山オートレース。
過酷なコースで結果を残し、その性能を証明してみせた。
大地へ、海へ、空へ、そして世界へ。
挑戦のスピリットは、未来を切り拓いてきた。
あらゆる人が生活を楽しみ、豊かに生きていくことを願って。
開拓の先には未知の世界が待っている。
こんなに素晴らしいことはない。
だって私たちには、挑戦の DNA があるのだから。
挑戦とは、すべてのはじまりなのだから。

赤トンボ「YA1」でレースに挑む
「赤トンボ」で熾烈な市場競争に名乗りを上げたが、市場の反応は鈍く、販売に勢いがなかった。「楽器のヤマハ」は知られていても、モーターサイクルでは後発であり、「他車とは違うモーターサイクル」を訴えるだけでは、先発メーカーに対抗できなかった。1955 年の5月末、日本楽器では誕生間もないYA1 の性能をレースの場で実証し、自らの存在を広くアピールするという思い切った戦略を打ち出した。新たな挑戦だった。初陣に選んだのは、1955 年7月10日に行われた第3 回富士登山レースである。当時、このレースは二輪業界のビッグイベントで、過去2 回はホンダが連続優勝していた。YA1を発売して5 ヶ月。レース参戦を決めてから本番まで残された期間は1 ヶ月で時間に余裕はない。だが、競争の世界に身を投じる以上、目指すは優勝あるのみ。まさに社運を賭けた準備が展開された。コースは静岡県富士宮市の浅間神社から富士山の3 号目までの登山道24.2キロ、標高差は1,400m。ヤマハが出場した125ccクラスには16 社から49 台が出走した。レースはタイムトライアル方式で行われ、結果はYA1が29 分07 秒で優勝、10 位までに7 台のYA1が入賞した。ハイパワーを効率よく引き出す4 段変速機、登山道のコーナーを俊足に駆け抜けられる操縦安定性など、YA1 の素性のよさが実証されての圧勝であった。同じ年の11月、より高度なレースとして始まった第1 回浅間高原レースにも参戦する。このレースも一般道で、火山灰の路面は雨で掘られたギャップが連続し、幅員も狭い難路を全速力で走行する厳しいレースだったが、125ccクラスで再び上位を独占した。これらのレース活動は「ヤマハ」の知名度を徐々に高め、創業した1955 年に2,272 台だった年間生産台数は、1956 年に8,743 台、さらに1957 年には1万5,811 台と増加。レースでの躍進は技術の確かさをアピールし、販売促進に着実に貢献した。